宮崎の青島から、神話の国「高千穂」へ。
高千穂にも50年前に一度、訪れていて
’御橋’から高千穂峡を眺めていました。
今回は阿蘇火山活動によって噴火した
火砕流が、冷え固まる時に、柱の形と
して現われるものを「柱状節理」と呼び、
この現象をしっかりと観たかったのです。
さらに、川などの浸食によって出来た
「高千穂峡」と「真名井の滝」をボート上
からも眺めたいと思いました。
高千穂では約3時間程滞在し、「高千穂峡」
「高千穂神社」「天岩戸神社」「天安河原」
等を見学。
その後、神話の国を後にし、阿蘇を目指
しました。
【高千穂峡】
’高千穂の夜神楽’に登場する「天うず女命(アメノウズメノミコト)」を模した石造です。「天照大神」が’天岩戸’に隠れてしまい、’八百万の神々’が「天安河原」で「天照大神」を外に出すための相談をし、「天うず女命」が踊り、身に着けていた衣服等を脱ぎ捨て、’八百万の神々’が大いに笑い、楽しんでいるので「天照大神」が岩戸を少し開けたという、古事記や日本書紀に記されている伝承に出てくる人物像です。(道の駅高千穂にて)
「高千穂峡」の有名な「真名井の滝」はよく見かける写真ですね。
「玉垂の滝」です。「おのころ池」の上にある滝で、断崖にある高さ約5m、幅約15mの滝で岩肌の隙間から幾筋の水が湧き出て滝となっています。
「おのころ池」です。国産みの神話で知られる神々がつくり出した島が「おのころ島」です。この写真では右下手前の岩(おのころ島)が若干写っています。「玉垂の滝」から流れ出た水がこの池を形成しています。
阿蘇火山活動によって噴火した火砕流が冷え固まり、川の浸食によって「柱状節理」を形成しています。自然の力を感じる場所です。
「柱状節理」をアップしました。
自然の醍醐味を目の前にすると言葉になりませんね。
「真名井の滝」は落差17mを誇ります。「おのころ池」からの水が滝となっています。
「真名井の滝」をボート上から眺めた一枚です。因みにこの写真下中央のペアは札幌から旅行で訪れた方でした。
この方は「高千穂峡」の「真名井の滝」近くで、ボートに乗った観光客の安全を見守っている方で、1時間ごとに交代するそうです。お疲れ様です。(この方から直接、お話しを伺いました)
【高千穂神社】
「高千穂神社」です。約1900年前の’垂仁天皇’時代に創建、’神話の里’を代表する高千穂郷八十八社の総社です。
【天安河原】
「天照大神」がお隠れになった際、「八百万の神々」が相談したとされる大洞窟です。この場所で何枚も写真を撮ったはずなのに残念ながら画像が残っていませんでした。もしかしたら神々が’恥ずかしいから写さないで!’とパワーを出したかもしれませんね。(この写真は「高千穂町」のHPより転写しました)
【天岩戸神社】
「天手力男命(アマノタチカラオノミコト)」が’天岩戸の戸’を持ち上げている像です。’腕力の強い男神’で現在も力の神、スポーツ全般の神として信仰されています。※天岩戸神社には朝早かったので残念ながら参拝は出来ませんでした。
高千穂にも50年前に一度、訪れていて
’御橋’から高千穂峡を眺めていました。
今回は阿蘇火山活動によって噴火した
火砕流が、冷え固まる時に、柱の形と
して現われるものを「柱状節理」と呼び、
この現象をしっかりと観たかったのです。
さらに、川などの浸食によって出来た
「高千穂峡」と「真名井の滝」をボート上
からも眺めたいと思いました。
高千穂では約3時間程滞在し、「高千穂峡」
「高千穂神社」「天岩戸神社」「天安河原」
等を見学。
その後、神話の国を後にし、阿蘇を目指
しました。
【高千穂峡】










【高千穂神社】

【天安河原】

【天岩戸神社】

鹿児島市「喜入町」から鹿児島市内に
移動。
鹿児島と言うと’西郷隆盛’と’桜島’が
直ぐに思いだされますね。
そこで’西郷隆盛’像がある「鹿児島城跡」に。
「鹿児島城(鶴丸城)跡」と言われ、残念
乍、明治6(1873)年の火災で焼失。
令和2(2020)年に城のシンボル「御楼門」
が復元されました。
お城跡のお堀近くに「西郷隆盛」像もあり、
短時間で見学が出来ました。
標高107mの丘、「城山」から「桜島」を
見学しましたが、雲で山頂は観られず。
’鹿児島湾’に沿って垂水から「桜島」へ。
外周約36kmの「桜島」。
勿論、一周しました。
大隅半島の最南端の「佐多岬」から
「都井岬」を経由し、日南市の「鵜戸
神宮」、宮崎市の「青島神社」を見学し、
本日の宿泊地「道の駅 高千穂」に
雨降る中、19時頃に無事到着。
【鹿児島城跡】
焼失する1年前の明治5(1872)年に撮影された「鹿児島城(鶴丸城)跡」です。山から平野部にかけて城を築く「平山城」で天守閣は有りません。案内板等は「鶴丸城」で統一されていました。現在は大手門跡や石垣、水堀を残す城跡です。(鶴丸城跡の案内板を撮影)
明治5年に撮影した「御角櫓」です。お城は慶長6(1601)年頃に島津家18代当主家久が建設に着手しました。(鶴丸城跡の案内板を撮影)
「御楼門」です。明治維新150周年記念事業として平成30(2018)年に起工。
「御楼門」正面から左側の’お堀’を撮影。
お堀の前に「石積の技術」として展示されていました。この積み方は「算木積み」で、石垣の角(隅角)の強度を高める積み方です。
内側はこのように積まれています。
「亀甲積み」で、石材を六角形に加工する積み方で、’亀の甲羅’の模様に見えることからこのように呼ばれます。
内側はこのように積まれています。
「金場取残積み」で、石材の縁を削る加工を行う積み方です。
内側はこのように積まれています。
「西郷隆盛像」です。「鶴丸城跡」のお堀の端に立っています。幕末維新の一人で、明治天皇の信頼が厚く、最初の近衛都督陸軍大将になりました。ご存知の通り、薩長同盟を結び’江戸無血開城’を実現。明治6(1873)年、政争に敗れ東京から鹿児島に戻る。明治10年西南戦争で城山で自刃しました。
「城山公園」より鹿児島市街を一望。残念乍ら「桜島」の山頂が雲で覆われ今一でした。
’道の駅たるみ’より「桜島」を望む。
「桜島」を一周しました。道路近くまで昔、噴火した溶岩が迫っていました。
’桜島土石流’を管理するための堰堤が整備されていました。
桜島から鹿児島市街を一望。桜島⇔鹿児島間のフェリーでの所要時間は約15分程です。
「桜島」を一周すると道沿いに噴火した際に身を隠す「退避壕」が一定距離ごとに設置されていました。
大隅半島の’道の駅ねじめ’より対岸の薩摩半島の端にある「開聞岳」が観えます。
大隅半島最南端 「佐多岬灯台」です。
大隅半島最南端 「佐多岬灯台の傍にある展望台」です。
「都井岬」で、国の’天然記念物’の「野生馬」を間近に見学できます。近くに寄っても逃げたりしません。観光客の方が’野生馬’に触れていましたが、馬は何の反応もしませんでしたね。
「都井岬灯台」に向かう途中に’天然記念物の野生馬’が道路を塞ぎ、車が通過することが出来ませんでした。この場所で10分程、足止めとなりました。何とか抜け出し、「都井岬灯台」に着くと、売店の方から’3 頭の馬でしょう! あの馬たちは動かないのよね。杖や傘の端で地面を叩くと動きだしますよ!’と教えて頂きました。
「都井岬灯台」です。この灯台は珍しく、上まで登れる灯台です。太平洋(日向灘)を一望出来、心地良い風も吹いていて素晴らしい眺めでした。
「鵜戸神宮山門」です。
海を見下ろす石段を下りた先の洞窟内に’本殿’があります。’本殿’を一周出来ます。外国人も多く参拝していました。
’運玉’を’亀石’のくぼみに、願いを込めて投げ、入れば願いが叶うと言われています。残念乍ら、チャレンジしましたが入りませんでした。
’青島神社’に向かう途中、日南海岸には「波状岩」で別名な「鬼の洗濯板」と言われる地形が綺麗に観えます。
「青島」に渡るためにはこの「やよい(弥生)橋」を通ります。
「青島神社」の境内入口には権現造りの「大鳥居」です。
「鳥居」の海岸側の「波状岩」で別名「鬼の洗濯板」です。島全体が’ノコギリの歯’の様な「波状岩」に取り囲まれています。
「鬼の洗濯板」をアップしました。遠くから見ると波がそのまま岩になった様に感じます。
「青島神社」です。神話「海幸彦、山幸彦」で知られ、縁結び、安産、航海安全の神様として親しまれています。
移動。
鹿児島と言うと’西郷隆盛’と’桜島’が
直ぐに思いだされますね。
そこで’西郷隆盛’像がある「鹿児島城跡」に。
「鹿児島城(鶴丸城)跡」と言われ、残念
乍、明治6(1873)年の火災で焼失。
令和2(2020)年に城のシンボル「御楼門」
が復元されました。
お城跡のお堀近くに「西郷隆盛」像もあり、
短時間で見学が出来ました。
標高107mの丘、「城山」から「桜島」を
見学しましたが、雲で山頂は観られず。
’鹿児島湾’に沿って垂水から「桜島」へ。
外周約36kmの「桜島」。
勿論、一周しました。
大隅半島の最南端の「佐多岬」から
「都井岬」を経由し、日南市の「鵜戸
神宮」、宮崎市の「青島神社」を見学し、
本日の宿泊地「道の駅 高千穂」に
雨降る中、19時頃に無事到着。
【鹿児島城跡】
































昨日15日(火)は終戦から78年を迎え、
先の大戦で犠牲となった約310万人を
政府主催の「全国戦没者追悼式」が
日本武道館で開かれました。
黙とう
戦後78年も経過すると、戦争体験者や
遺族の方々も少なくなり、直に当時の
お話し等を聴く機会も無くなっているの
が実態ではないかと思います。
私の伯父(亡母の兄)も旧ビルマで
戦死しており、母や親戚の方から
伯父の最期となった休暇・面会を許さ
れた当時の話を何度か聞いた事があり、
戦争は絶対に起こしてはならないと
強く感じています。
また、子供の頃から「特攻隊」については
知っていましたが、具体的には何も知り
ませんでした。
この数年前から「特攻の母」と呼ばれて
いた「鳥濱トメ(享年89歳)」さんの事を
知り、関係する本や映画、残されている
トメさんの映像等を観たりしました。
(その時は涙が勝手に零れ落ちていました
)
「一人旅」での目的地の一つとして「知覧」
に足を運びたいと考えていました。
理由は「特攻隊」の出撃場所の一つであり、
その実態や「鳥濱トメ」さんについても直接
肌で感じたかったからです。
「知覧特攻平和会館」では一部の場所
を除いて写真撮影が禁止されていました。
内部の様子を写真ではお伝え出来ません
が、見学者の多くは展示されていた写真、
遺書、遺品、手紙、録音されていた声など
を直に聴いて、声を押し殺し、鼻をすする
音だけが周りから聞こえていました。
建物の最後に展示されていた
「ゼロ戦?」の朽ち果てた機体が
戦争の残酷さを私に訴えかけて
いました。
本当に戦争をしてはいけないと
強く感じました。
知覧特攻平和会館を見学した後で
「特攻隊員達」から慕われた、トメさん
が経営していた「富屋食堂」に向かい
ました。
「知覧飛行場」から「富屋食堂」までの
距離は約2km程あり、この距離を
各特攻隊員たちは何を考えて通った
のかを自分なりに考える時間を持つ
事が出来ました。
今回のブログ内容は重いモノになり
ましたが、しっかりと「戦争」について
考えざるを得なかったです。
【知覧特攻平和会館及びその敷地内の展示物】
この飛行機(一式戦闘機:隼)は平成19年に公開された映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」で忠実に復元された陸軍戦闘機です。
「特攻の母」と呼ばれ、出撃する若き「特攻隊員」の食事などお世話した「鳥濱トメ」さんの像です。もし、「鳥濱トメ」さんについて知ってみたいと思われましたならば、お名前等でネット検索しますと色々出てきます。「鳥濱トメ」さんの娘さんが書いた本(ホタル帰る)や晩年の「トメ」さんの映像も観ることが出来ます。(写真が横になってしまい申し訳ありません)
「知覧特攻平和観音堂」への参道の脇に「鳥濱トメ」さんが寄進した’灯ろう’があります。左端です。「知覧」の街に入ると県道を始め、観音堂に続く道には全国の遺族・関係者・有志から寄進された数多く’灯ろう’が並んでいます。
「知覧特攻平和観音堂」外観です。
「平和観音堂」となります。終戦後、この地に米駐留軍が数か月滞在し、日本軍機などを燃やしたりした場所で、’トメ’さんは’特攻隊員’を祀るお堂を建てたかったが、米駐留軍にバレルと取り壊されることが予見できましたので「棒切れ」を立て、’トメ’さんと長女’美阿子’さん二女の’礼子’さんと定期的に「棒切れ」にお参りをしたそうです。その「棒切れ」を立てた場所がこの辺りではないかと思います。
「三角兵舎」です。この兵舎は半地下で松林の中に建てられ、屋根には幼木などを置いて上空からわからないようにしたそうです。
「三角兵舎」内部です。ここには’特攻隊員達’の笑顔の写真が掲載されていましたが、逆に悲しみがこみ上げてきました。
何人もの若き特攻隊員は「三角兵舎」の布団の中で声を殺し、泣いた事でしょう。
「三角兵舎」内で「知覧高等女学校」の生徒が同じ年代の’特攻隊員達’のお世話をしている写真で、出撃当日の朝食時の給仕をしています。女子生徒たちはどのような気持ちで接していたのでしょうか? さぞ辛かったのだと思いますが、決して顔に出さず、笑顔で接していた事でしょう。因みに’トメ’さんの二女’礼子’さんは「知覧高等女学校」の生徒で「奉仕隊」のメンバーだったそうです。
「知覧特攻平和会館」出入り口です。館内には’特攻隊員達’、一人ひとりの遺影が飾られ、遺書、手紙、遺品等が展示されていました。内部は撮影禁止ですが、多くの見学者の方々の’むせぶ声’と’鼻をすする音’があちらこちらからから聞こえて来ていました。勿論、私もですが・・・・。
鹿児島沖海底から引揚げられた’零式艦上戦闘機(通称:ゼロ戦)’です。「知覧特攻平和会館」内は撮影禁止ですが、最後の順路でこの場所だけは撮影OKでした。
「知覧特攻平和会館」隣の「ミュージアム知覧」には’米国大リーグ・エンゼルス’でホームランを放った打者を祝福するセレモニーで有名になった「兜」がありますね。その「兜」を制作したのは薩摩川内市にある「丸武産業」です。そこで「大谷選手」達が被る「兜」と同じモノが展示されていて、自由に被ることが出来ました。係り員の方が来場者に被る様に促していました。勿論、被り、それを係員が写真を撮ってくれました。重さ約2.5kg程で、大谷選手になった気分です。
鳥濱トメさんが経営していた「富屋食堂」です。本来の建物は昭和50(1975)年に道路拡張の為、取り壊され、平成13(2001)年に復元された建物となります。中は自由に見学出来、「特攻隊員達」の写真や遺品等が展示されていました。
富屋食堂の裏手側にあった家の池になります。この池に空襲時にトメさんは身を隠したそうです。
※「知覧」を訪ねることで「特攻隊員達」の実情や「鳥濱トメ」さんの一部輪郭に触れることが出来ました。「戦争」とは’一般国民が辛い想いを一生背負う事’に繋がる事も知りました。故に「戦争」は絶対にしてはいけない事です。
※’特攻隊’と’鳥濱トメ’に関して観た映画と読んだ書籍です。
映画:「ホタル」(2001年)監督:降旗康男、キャスト:高倉健、田中裕子他
「俺は、君のために こそ死ににゆく」(2007年)監督:新城卓、脚本:石原慎太郎、キャスト:岸恵子、徳重聡、窪塚洋介
書籍:「ホタル帰る」(草思社文庫)、副題として’特攻隊員と母トメと娘礼子’この本は二女の礼子さんが母親と姉(美阿子)のことを書いた本で、最低この本は読んで貰いたいです。
「華のときは悲しみのとき」(高城書房出版)、「知覧からの手紙」(新潮文庫)
先の大戦で犠牲となった約310万人を
政府主催の「全国戦没者追悼式」が
日本武道館で開かれました。
黙とう

戦後78年も経過すると、戦争体験者や
遺族の方々も少なくなり、直に当時の
お話し等を聴く機会も無くなっているの
が実態ではないかと思います。
私の伯父(亡母の兄)も旧ビルマで
戦死しており、母や親戚の方から
伯父の最期となった休暇・面会を許さ
れた当時の話を何度か聞いた事があり、
戦争は絶対に起こしてはならないと
強く感じています。
また、子供の頃から「特攻隊」については
知っていましたが、具体的には何も知り
ませんでした。
この数年前から「特攻の母」と呼ばれて
いた「鳥濱トメ(享年89歳)」さんの事を
知り、関係する本や映画、残されている
トメさんの映像等を観たりしました。
(その時は涙が勝手に零れ落ちていました

「一人旅」での目的地の一つとして「知覧」
に足を運びたいと考えていました。
理由は「特攻隊」の出撃場所の一つであり、
その実態や「鳥濱トメ」さんについても直接
肌で感じたかったからです。
「知覧特攻平和会館」では一部の場所
を除いて写真撮影が禁止されていました。
内部の様子を写真ではお伝え出来ません
が、見学者の多くは展示されていた写真、
遺書、遺品、手紙、録音されていた声など
を直に聴いて、声を押し殺し、鼻をすする
音だけが周りから聞こえていました。

建物の最後に展示されていた
「ゼロ戦?」の朽ち果てた機体が
戦争の残酷さを私に訴えかけて
いました。
本当に戦争をしてはいけないと
強く感じました。
知覧特攻平和会館を見学した後で
「特攻隊員達」から慕われた、トメさん
が経営していた「富屋食堂」に向かい
ました。
「知覧飛行場」から「富屋食堂」までの
距離は約2km程あり、この距離を
各特攻隊員たちは何を考えて通った
のかを自分なりに考える時間を持つ
事が出来ました。
今回のブログ内容は重いモノになり
ましたが、しっかりと「戦争」について
考えざるを得なかったです。
【知覧特攻平和会館及びその敷地内の展示物】















※「知覧」を訪ねることで「特攻隊員達」の実情や「鳥濱トメ」さんの一部輪郭に触れることが出来ました。「戦争」とは’一般国民が辛い想いを一生背負う事’に繋がる事も知りました。故に「戦争」は絶対にしてはいけない事です。
※’特攻隊’と’鳥濱トメ’に関して観た映画と読んだ書籍です。
映画:「ホタル」(2001年)監督:降旗康男、キャスト:高倉健、田中裕子他
「俺は、君のために こそ死ににゆく」(2007年)監督:新城卓、脚本:石原慎太郎、キャスト:岸恵子、徳重聡、窪塚洋介
書籍:「ホタル帰る」(草思社文庫)、副題として’特攻隊員と母トメと娘礼子’この本は二女の礼子さんが母親と姉(美阿子)のことを書いた本で、最低この本は読んで貰いたいです。
「華のときは悲しみのとき」(高城書房出版)、「知覧からの手紙」(新潮文庫)
先日、友人達(友人家族含む)8人で北広島
市に新しく完成した「日本ハム新球場(ES
CON FIELD)」に行って試合を観戦して
きました。
試合は「日本ハム 対 西武」で、結果は
残念ながら 3 - 6 で 負けましたが、
8回に奈良間選手、9回に清宮選手が
共に本塁打を打ち、球場内を盛り上げて
くれました。
今までの「札幌ドーム(約53,000人)」
より、収容人数は少ない約 35,000人
ですが、球場内は選手は勿論、観客の
目線で造られている様に感じました。
北広島駅から球場までの動線が気になり
ましたが、5分毎に駅からのシャトルバス
が出ていて、行き帰りとも全く、問題は
無く、また、行きたいと思いました。
【日本ハム新球場(ES CON FIELD)】
日本ハム新球場(ES CON FIELD)出入り口です。
「ファイターズ」のマークが出入り口前にタイルで飾られていました。
北広島駅と球場を結ぶ「シャトルバス」です。時間帯で変わるかもしれませんが、5分毎(前のバスが出発すると、次のバスが並んでいて、乗客が乗ると直ぐ)に出発していましたのでアクセスには問題は無いですね。
球場内は今までの「札幌ドーム」より観やすいと感じました。
「車いす」の方々も多く観戦していました。
「札幌ドーム」の観客席は急こう配でしたが、今の観客席は比較的こう配は緩く、階段の昇り降りは楽でした。またお隣の席との間隔も若干広いと感じました。
清宮選手がバッターボックスに立っています(距離が離れていて、写真がボケています
。
「ファイターズガール」が’きつねダンス’などで試合を盛り上げていました。
市に新しく完成した「日本ハム新球場(ES
CON FIELD)」に行って試合を観戦して
きました。
試合は「日本ハム 対 西武」で、結果は
残念ながら 3 - 6 で 負けましたが、
8回に奈良間選手、9回に清宮選手が
共に本塁打を打ち、球場内を盛り上げて
くれました。
今までの「札幌ドーム(約53,000人)」
より、収容人数は少ない約 35,000人
ですが、球場内は選手は勿論、観客の
目線で造られている様に感じました。
北広島駅から球場までの動線が気になり
ましたが、5分毎に駅からのシャトルバス
が出ていて、行き帰りとも全く、問題は
無く、また、行きたいと思いました。
【日本ハム新球場(ES CON FIELD)】









鹿児島県の指宿(いぶすき)市内で、2 回目
のコインランドリーを利用。
本当に今の時代便利なモノがある事に感謝。
例えば、24時間利用可能な’コインランドリー’
を探すのに、初めての場所でも’スマフォ’で
検索すると場所が特定されます。
本当に便利ですね。
洗濯を終えて、「指宿」で有名な「砂蒸し
温泉」に入ることに。
昔(50年前)入浴しませんでしたので、この
旅では必ず入ることに決めていました。
「砂むし温泉」の後で地元の方から紹介され
た「市営唐船峡そうめん流し」で昼食を摂り
次の訪問先(知覧)に向かいました。
【指宿 砂蒸し温泉】
「砂むし会館(砂楽:さらく)」2階が 出入り口です。1階が’温泉’で「砂むし温泉」から出て来て、体に着いた砂などを落としてから’通常の温泉’に入ります。
受付で’浴衣’を貰い、1階更衣室でスッポンポンになり、浴衣のみ着て、サンダルで外に出て行き、防波堤から海岸に降ります。この写真は防波堤から撮りました。海岸線から温泉の蒸気が出ています。因みにこの海岸線の下の温泉温度は約85℃との事です。
階段を下りて、全天候型の指宿最大の「砂むし温泉」です。
この写真は「砂むし会館’砂楽~さらく~’」のHPより。この場所は撮影禁止の為、HPから。
砂に入る際、係りの方から「約10分間を目安にしてください。それ以上でも、それ以下でも大丈夫です。ご自分で決めて下さいね」と言われ、私は20分間入っていました。係りの方が入る場所を掘ってくれ、丁度、背中が当たる場所が45℃程の温度で、それ以上掘るとさらに温度が高くなるそうです。砂をかけて貰うと、最初はかなりの圧迫感を感じますが、徐々に慣れ、気持ちよく入浴出来ました。何度でも入りたくなりました。
【唐船峡(とうせんきょう)そうめん流し】
「砂むし温泉」を出てから、地元の方に昼食出来るところを訊きましたら、「市営唐船峡そうめん流し」を紹介してくれました。「砂むし温泉」から20~30分程で到着。多くの人達で賑わっていました。
ここで一番人気の定食を頂きました。回転式の器具に’そうめん’を入れ、確かに「そうめん流し」ですね。ここは渓谷で川の上に板を敷いて、そこで営業をしている様です。ここで育てている「いわな」も美味しかったです。
【開聞岳】
指宿の「開聞岳」です。標高924mの火山で「薩摩富士」と称され、南薩のシンボルです。
「枕崎」から「指宿」に向かう途中の「瀬平自然公園」で撮影。本当に「富士山」の様で綺麗でした。
のコインランドリーを利用。
本当に今の時代便利なモノがある事に感謝。
例えば、24時間利用可能な’コインランドリー’
を探すのに、初めての場所でも’スマフォ’で
検索すると場所が特定されます。
本当に便利ですね。

洗濯を終えて、「指宿」で有名な「砂蒸し
温泉」に入ることに。
昔(50年前)入浴しませんでしたので、この
旅では必ず入ることに決めていました。
「砂むし温泉」の後で地元の方から紹介され
た「市営唐船峡そうめん流し」で昼食を摂り
次の訪問先(知覧)に向かいました。
【指宿 砂蒸し温泉】




砂に入る際、係りの方から「約10分間を目安にしてください。それ以上でも、それ以下でも大丈夫です。ご自分で決めて下さいね」と言われ、私は20分間入っていました。係りの方が入る場所を掘ってくれ、丁度、背中が当たる場所が45℃程の温度で、それ以上掘るとさらに温度が高くなるそうです。砂をかけて貰うと、最初はかなりの圧迫感を感じますが、徐々に慣れ、気持ちよく入浴出来ました。何度でも入りたくなりました。
【唐船峡(とうせんきょう)そうめん流し】


【開聞岳】

